« 竹の節抜き工具 | トップページ | アーミッシュ的「伝統と文明の共存」:馬車のウィンカー »

2007年1月 6日 (土)

書き初め「無手聴音」

Photo_23

見苦しいものをお見せして失礼致します。
書初というと本来1月2日あたりに行うものだそうですが…外出と誘惑が多くて、なかなかその気になりませんでした。

上手下手は抜きにして、心の乱れは筆致に表れることを実感しますね。恐ろしい。
僕の笛の音も、このように乱れた線で金釘流の文字を書いているような感があります。

さて「無手聴音」とは。

自分の手で技術を凝らして演奏するというのではなく、
よく周りの音を聴くこと、自らの心身の内なる音を聴くこと。
調和するところに自ずから音が生まれ手が生まれる。

という境地を考えています。

この概念、言葉が脳裏に浮かんだのは、
元旦に「蝉丸神社」(毎朝の散歩コース)へ参拝した帰途でした。
蝉丸法師は百人一首の「これやこの~逢坂の関」で有名な琵琶法師の先駆者で、盲目の楽聖、音曲の守護神として信仰されてきた聖人です。

盲目の身であるがゆえに、目明きには分からない高次元の世界を開拓された方なのでしょう。

「今、汝の身に在るものを在ると思うな。
無しと思ってこそ、自然に在る」

このように教えてくださったのだろうと想像しています。

ちなみに、禅の公案に「隻手音声」という言葉があるそうです。
「両手を打ち合わせれば、パーンという拍手の音がする。では、片手で打つ音(=隻手音声)は、どのような音であるか?」
こういう問題です。この言葉も念頭にありました。

「隻手音声」に倣って「無手聴音」を禅問答風に表現すると

「笛などの楽器は両手を動かして音を変化させ、音楽を奏でるものである。では、演奏者(または自分自身)に手が無いならば、どのような音を聴くことができるか?」

さて、この1年、如何に。


【参考】※ 僕は以下の書籍を読んでいません。紹介記事を読んだだけです。
『隻手の音なき声 - ドイツ人女性の参禅記』リース・グレーニング(Groening Lies)著、上田 真而子 訳、筑摩書房
紹介文:玄侑 宗久 師
http://genyu-sokyu.com/essey/essey05/47.html

花園高校の前校長先生による寄稿文(白隠禅師と公案「隻手の声」について)
http://www.kyoto-hanazono-h.ed.jp/zen.htm

『無手の法悦』大石 順教 著、春秋社
http://www.shunjusha.co.jp/book/13/13714.html

|

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136227/13358387

この記事へのトラックバック一覧です: 書き初め「無手聴音」:

コメント

コメントを書く